今日は、「神様が回復したい関係」というテーマで、聖書を見ていきたいと思います。「神様が回復したい関係」とは、どういうものなのか?私たちは正しいアイデンティティーを回復することが必要です。ある所から少し抜粋したものですけれども、ある精神分析学者が定義した言葉を、皆さんと少し分かち合いたいと思います。
「アイデンティティーとは、自己確立、あるいは、自分固有の生き方や価値観の獲得」というように定義し、この方が言う自己というのは、「自分自身の心の働きを顧みながら、それによって見出された主観的自己(主観的に自分を見るということです)。」この社会の中で、主観的自己が評価され、社会的自己が生み出されます。この世の中で皆さんが、世の中の人によって認められ、その社会の中で評価されるあなた自身のことを、自己確立と定義し、それぞれが属する場所の固有の価値観に、自己を同一化する。その中で、様々な役割を積極的に引き受けることによって、自己を確立していくというように定義しているのです。この方が言うところの自己確立という自己は、この社会で皆さんが自覚し、あるいは働きや皆さんの性質とか、そういったものが評価されて存在しているあなたに対して、この人は、「アイデンティティー」、「自己確立」と定義しているのです。ですから世の中によって評価されて、世の中によって認められているあなた自身の今のあなたの立場や、働きや、そういったものを、この人はアイデンティティーと言っているのです。
この方が言っている、現代におけるアイデンティティーの喪失、自己確立が失われていっている問題とは、個人と社会の不適合の現象であり、自分の価値や意義が通じなくなると、自分自身を見失い、劣等感、排他的な考えを抱くようになるということです。そうだと思います。この世の中で、そのアイデンティティーが認められなくなって、アイデンティティーの自己確立が失われていったことによって、この世と不適合になってきている。この世で生きていくのがつらく、自殺しようと思ったり、劣等感、排他的な考えを抱くようになり、夢も希望もなくなっていく。そしてごくわずかな人たちだけが、その能力によって高められていくという現状が、私たちの中にはあると思います。でも聖書は、こう言います。イザヤ書43章4節「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、」神様は私たちに対して、このように見てくださっているのです。「あなたは尊い者ですよ。あなたはこの地上で社会的に認められなくても、あなたは非常に重んじられる者ですよ。」と、言っているのです。私たちが軸足を置かないといけないのは、こちらの方なのです。あなたが社会に出て、仕事が十分にできなかったとしても、それによってあなたのアイデンティティーを認識しません。社会が、「こいつはダメな奴だ!能力がない、価値のない人間だ!」というように定義したとしても、神様は、そういうあなたであったとしても、「わたしの目には、あなたは尊い存在です。」そして、「あなたは非常に重んじられる存在です。」と、言ってくれるのです。すごいですよね、この神様の考え方というのは。ですから、私たちは自己卑下、自己否定から解放されなければなりませんし、誰かと比較するということも除去していかなければなりません。私たちの比較の対象とは、自分よりもこの人はちょっと能力が下だな、と思ったら強く出るし、この人は上だなと思ったら萎縮するというところがあります。子供たちが格闘技系のYouTubeを私に見せてくれました。アウトサイダーとブレイキングダウンというのがあるのですが、アウトサイダーといったら、ちょっとはみ出した人たちのことで、もう喧嘩に明け暮れているような人たち。皆、ほとんどが入れ墨をしていて、でもヤクザではない。もう片方は、格闘技が好きな者たち。それが衝突するのです。試合をする前は、威嚇し合うのですが、いざ試合が始まったら、「えっ、弱いなあ。」という人が出てくるのです。そうなったらもう上下関係が明らかになっていくのです。結局、この世ってそういうものですよね。力がある、強い、それが良い。知識がある、知性がある、それによって上下が決まる。では、何もない人はこの地上ではだめなのか?そういうことになるかもしれませんが、私たちは神様から見て、「尊く、重んじられる者」なのです。でもこれは、あなたが何もないから、開き直っていいということではないのです。自分はそのような者であるということをわきまえて、でも、そういう者でも愛してくださる方がおられるというところに到達していくのが、私たちのアイデンティティーです。この何もない私でも、本当に尊んでくださり、重んじてくださっている神様の愛の中に私はとどまっている。その中で、傷ついていた、価値がないと思っている自分の価値を回復していって、急に能力が高まり、仕事ができるようになるという訳ではないと思います。でも、その自分をわきまえて、自分にできることを精一杯やっていくという正しい考え方に回復していかなければならないです。我々は歪んでいます。そして傷ついています。でもその傷が、私たちをある意味強めて、自分を前に押し出そうとしたり、自分を認めてもらおうとして、何か自分にできることだけに集中してしまう。できないことはもう置いておいたらいい、というようにして極端な人格を形成していくかもしれません。でも神様にあって、私たちは正しいアイデンティティーを持ちましょう。どんな人でも神様に造られたのだということです。
一人の人物を、今日皆さんと見ていきたいと思うのですが、それはモーセという人物です。この人が生まれた時の状況というのは、非常に厳しい状況でした。へブル人という民族だったのですが、このヘブル人は当時、エジプトに支配されていたのです。ですからエジプトに奴隷として連れてこられて、エジプトの支配の中で生きていかなければならない状態でした。奴隷と同じような状態でした。その時に、エジプトのファラオが、「ヘブル人の子供が生まれたら、その子供たちをすぐに殺せ!」という命令を出していたので、子供が生まれたら殺されるということが繰り返されていました。ヘブル人を増やさない政策がとられていたのです。なぜなら彼らは力があるし、能力もあるから、彼らが増え広がると、自分たちにとってまずい状況になるので、このまずい状況を全部排除しようとしていたのです。でも、ひとりの子供が誕生して、その生まれた時の愛くるしさのゆえにその子を隠した、と聖書に書かれているのです。そしてナイル川にお母さんが行って、パピルスという草で編んだ入れ物にその赤ちゃんを入れて流した。その子はエジプトの王女に拾われ、王宮で育てられた。
当然、モーセはへブル人のルーツから完全に切り離されて、エジプトという考え方の中に彼は埋め込まれていったのです。異なるアイデンティティーを彼の中に形成しようとしたのです。ところがモーセが40歳になったときに、彼は、事を起こすのです。出エジプト記2章11節∼14節「モーセが成長して後、ある日のこと、同胞の所に出て行って、そのはげしい労役を見た。彼はひとりのエジプトびとが、同胞のひとりであるヘブルびとを打つのを見たので、左右を見まわし、人のいないのを見て、そのエジプトびとを打ち殺し、これを砂の中に隠した。次の日また出て行って、ふたりのヘブルびとが互に争っているのを見、悪い方の男に言った、『あなたはなぜ、あなたの友を打つのですか。』彼は言った、『だれがあなたを立てて、われわれのつかさ、また裁判人としたのですか。エジプトびとを殺したように、あなたはわたしを殺そうと思うのですか。』モーセは恐れた。そしてあの事がきっと知れたのだと思った。」彼が成長して、同胞の所へ行った時、その激しい労役を見たのです。モーセは王宮から同胞を見る立場にいましたが、彼の中に自分がヘブル人であるというアイデンティティーが、この様な状況を起こしました。それで、彼はこれではいけないと思って、エジプト人が同胞のへブル人を打っているのを見て、面白いですね!左右を見回した。前後は見ていなかったのです。左右を見て、誰もいないと思って、そのエジプト人を殺し、砂の中に隠して、「やったー!」。彼は、エジプトで自分はこういう立場で守られて、このヘブル人を助けたという非常に良いことをした感がすごく出ていたのです。ところが次の日も同じように、今度はヘブル人同士が言い争っていて、悪い方の男に言った。「なんでそんなことをするのだ。なぜ同胞を打つのだ!」と言うと、「お前は昨日、人を殺しただろう!」と、言うのです。見られていたのです。それで彼は非常に落ち込んだ。頭隠して尻隠さず。皆、自分は大丈夫と思っているのです。彼はここで、自分が良いと思ってやったことが、行き過ぎて殺人に及んだのです。
我々はそれぞれ自分のアイデンティティーを持っていますよね。自己確立、どうやって我々はそれを確立してきましたか?まずは、躾です。躾によって価値観が植えつけられてきました。その価値観の違いで夫婦が衝突しているのです。その躾の違い、常識の違いによって、全然違ってくるのです。それが受け入れられないから衝突してしまう。そして、ゆるせない。憤ってしまうということがあるのです。このモーセという人が構築していた価値観、自分自身を表すアイデンティティー、そういったものが、全部一瞬にして、間違った事をしたことによって崩れていったのです。彼はどうしたらいいのか、わからなくなったのです。自分が正しいと思ったことが否定されたのです。10人いたら10人の考え方があるし、5人いてもそれぞれ考え方があるし、全く同じだという人はいないです。双子でも違います。同じように、我々一人ひとりも違うのです。モーセも、ヘブル人のアイデンティティーを持っていたゆえに、へブル人をエジプト人から守った。でもそれが、行き過ぎた。彼の当時の立場だったら、エジプト人に、「止めなさい!やりすぎですよ。」と、諫める(いさめる)ことができたと思うのです。でもそうせずに、問答無用、打ち殺して砂の中に隠し、「良いことをした!」と。
アイデンティティーが確立していないと、自分を傷つけてしまったり、自分を否定してしまい、この世からいなくなった方がいいと思うくらい、私も落ち込んだことがあります。もう嘆いて、本当に、いてもいなくても同じじゃないかなと思うような時が、皆さんもあるでしょう。でもそういう時にこそ、私たちのアイデンティティーが、より強く回復していかないといけないのです。何かがあって、気が沈んで、また、自分のやっていることが何一つうまくいかなくて否定されたとしても、私たちは立ち直らないといけない。神様によって確立されたアイデンティティーは、どんなことがあっても崩されてはいけないということを、皆さん、理解してほしいのです。傷つけられ、否定されたとしてもです。モーセも同じです。たった一回の失敗で自分がひどく落ち込んで、「もうだめだ!」と思ってしまったのです。そして彼は、そのエジプトから逃げていったのです。そのことがエジプトの王に知れた、と書いてあります。ですから彼は、もうエジプトの王にも殺されるかもしれない。自分は追われる身となったということで、彼は逃げるようにしてミディアンの地に行ったのです。この時、彼は40歳だったのです。彼はそこから時間をかけて、アイデンティティーを回復していくのです。自分自身の中に、正しいアイデンティティーを形成していくためのものを養う期間を、取っていくというプロセスに移っていったのです。エジプトで養われた価値観が崩されていく場所に、神はモーセを導かれたのです。私たちは自分で何とかできると考えがちです。多かれ、少なかれ、私たちにはその考えがあると思います。自分の周りに自分よりも劣っていると思える人がいたら、自分の方が上だと思って、気持ちが良くなり自分を保つことができる。でも自分が否定されると、自分を保つことができないから、悪口を言ったり、立ち振る舞いが悪くなったり、投げやりになってくる。あるいは、もう絶対に人と関わらない。いつも自分だけ、というようになってくるのです。でも神様は、そんなことを望んでおられないのです。
モーセがエジプトを出るところから、彼自身のアイデンティティーが確立していくというプロセスが始まるのです。聖書の中でエジプトというのは、この世の中のシステムを象徴する言葉として我々は受け止めています。彼自身が、いくらへブル人であっても、このエジプトにおけるシステムが、彼自身の考え方や、思考を変えてしまったのです。この世の習慣という時、皆さんに思い当たるのは何でしょうか?私の場合はまず、自己中心です。自分さえよければよいという考え方です。そしてもう一つは、能力主義です。そして、波長の合う人たちだけを認め合う。合わなかったらいざこざが常にある。でも、そういう価値観から、この地上を正しく治めていくことは誰にもできないのです。ですから我々はまず、自分中心であるという考え方を捨てなければならないです。そして、自分さえ良ければという考え方も置いていかなければなりません。そして能力主義という捉え方も捨て、できない人がいるから、できる自分が助けるのだという考え方に行かないといけないです。子供を育てていると、「何でこんなこともできないの!?」とか言ってしまうのです。「何回教えているの!?」でも、できないのです。「はぁー、何でこんな風に育ったんだ!誰に似たんだろう?」って、言うのです。でもそれは違うのです。別人格なのです。ですから絶対に、私たちはそのような関わり方をしたらいけないのです。神様がそう造られたのだというように受け止めるのが、一番健全です。「違うんだ、自分と同じようにすることはできないんだ。でも成長したら、できるかもしれない。」それは要素としてある。でも正しい価値観を、その人の内に埋め込んでいかなければならない。モーセは、40歳から80歳まで、今度は羊を飼うという仕事についたのです。今までは王宮にいて、朝も昼も夜もおやつも、全部準備されて、狩りに行ったり、自分のやりたいことをしていたのに、今度は羊を飼って生計を立てなければいけないような生活に、180度変わってしまったのです。40年間、彼は今までとは真逆の人生の中に入ったのです。私たちが正しいものを選ぼうとするときに、私たち自身は少し苦痛を味わうかもしれません。でも、それによって品性が練られ、人格が形成されていく、と聖書に書いてあるのです。ローマ人への手紙5章3節∼5節、パウロは信仰によって、イエス・キリストが十字架にかかって、すべての人の罪を贖ってくださったことを信じました。それによって、自分の持っていた自己義から神様の正しさに移され、「私は本当に平和を得ました。」と、パウロは言ったのです。そしてその平和がもたらしているものは何なのか、ということを3節∼4節で、言っているのです。「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。」まず、患難を喜びます。患難を通して忍耐を生み出すということを言っているのです。40歳から80歳までは、モーセにとっては患難でした。全く違う生活を強いられて、自分の手で働かないといけなかったのです。今までは、働かなくても生活できていた。その患難を通して忍耐が生み出され、忍耐が、今度は錬達、練られた品性を生み出してくると書いてあるのです。ですから、「あぁ、私はだめだなぁ!」と思ったら、まず口を閉じたらいいと思います。「練られた品性は、希望を生み出す。」と、書いてあります。「練られた品性から希望を生み出すことを知っている。」と、パウロは言いました。彼自身がその経験をしたのでしょう。ですから、私たちにとって、苦しいなぁ!つらいなぁ!と感じるときこそ、私たちの中に忍耐が形成されていくのです。その忍耐が、練られた品性を生み出してくれる。そして練られた人格と品性は、希望を与えてくれる。私がただ単に、「希望を持ちましょう!」と言っても、その希望に行きつくには、患難、忍耐、練られた品性、そして希望があるということを覚えなければなりません。ですから、私が皆さんに言いたいことは、「絶対に諦めてはいけない!」ということです。もう、投げやりな気持ちになって、「うわー!」と、言うことがあったとしても、リセットしましょう。時々言ったらいいのですよ。駐車場に出て言う訳にはいかないので、自分の中で、「うわー!」と言うこともあります。でも、言っても、言ってスッキリして、リセットしてやっていきましょう。「神様、感謝します。」というところにまで持っていきましょう。それが練られた品性です。そうしたら、希望が出てくるのです。それが私たちには必要なのです。
ですから、人が変わるには時間が必要なのです。それで、「いつになったら変わるの!?」って、思わないでください。そういうことが、正直あるでしょう。しゃべりたくない。その空間に一緒にいたくないというくらい、嫌な関係になったこともあるでしょう。でもその期間は大切なのです。その時にあなたが神様の方に、自分の気持ちを持っていくということが大切なのです。また、モーセがそうなっていって、80年後、最後の40年を仕上げるために、神様が、「捕らわれているヘブル人たちを、このエジプトから出しなさい。」これは一つの型で、旧約時代はそうでした。でも今日、新約時代の私たちの捉え方は、「この世の価値基準に捕らえられて、その中で苦しみ、自分の命さえ落とそうとしているそのような人たち、もう路頭に迷っている、どう生きていいのかわからない人たちを助け出しなさい。」それが教会の役割です。そのために、モーセが神様によって選ばれたのです。「この世、エジプトから同胞を救い出しなさい。」でも、彼はこう言ったのです。「私はあまり口が上手ではありません。」でもこれは、彼が40年の間に、自分のアイデンティティーが変わっていった変化だと思うのです。エジプトの教育というのは、その当時では最高の教育だったのです。それを受けていたのですから、言葉においても、彼は雄弁家だったと思います。でも、この世の雄弁さは、もう捨てたのです。「真実に、私(モーセ)が人々に語る。」そういう者になりたいという飢え渇きが、彼に起きたのです。神様は、その彼の願いを聞き入れて、モーセに「お前の兄アロンがいるだろう、お前に代わって語ってくれる。」これは何かというと?助け手がいるということです。たとえ自分が何もかも備えていたとしても、助け手が必要なのです。
民数記12章3節「モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた。」人を殺した人間が、柔和だと言われるのです。どれだけ彼が変わったかということです。これを違う訳で読むと、「モーセという人は、この地上の誰にも勝って謙遜であった。」と、書いてあるのです。違う訳では、「モーセは実に柔和な人だった。この世に住んでいる誰よりも穏やかな人だった。」と、書いてあるのです。すごい人格者に変わっていったのです。「あぁ、それは神様の働きをするから、そうなんでしょう。」というように捉えないでください。私たちもそのように変わっていくと、神様が言っておられるのです。「私たちも、そうなっていきますよ。」と、言っておられるのです。こういったものが彼の中に構築されてきたのです。神様が見て、「彼は本当に謙虚で、柔和な人だ。」と言われたのです。ですからそのように変えられるまで、彼も、いろいろな古い習慣が取り払われなければならなかったのです。彼はミディアンの地という、自分の生まれ故郷も何もかも捨てて、新しい土地に来て、新しい土地の、その習慣にならっていかなければならなかった。モーセは、今までは、にんにくと玉ねぎと、にらや肉を食べていたのに、今度は、まったく違う所に行って、食べたいものが出てこない時があったのです。でもそれに、自分を服さないといけない。そこに必要なのは何かというと、「感謝」なのです。私たちは、感謝が一番足らないのです。「この現状を感謝します。思う通りにいかない人生を感謝します。思う通りにいかない仕事、家庭、何もかも感謝します!」というところに立ち返りましょう。「感謝する」という視点が与えられたら、今まで自分に敵対していたと思える人たちが、実は親切で言ってくれていたということに気づくかもしれません。それが嫌味でないように見えるかもしれません。これは非常に大切なことです。ですから皆さん、そのように生きていきましょう。ではもう一箇所、変わっていくために必要な御言葉を見ましょう。
箴言25章27節∼28節(リビングバイブル訳)「どんなに良い食物でも、食べすぎは体に毒です。同じように、人にほめられるのはすばらしいことですが、それを意識しすぎるのはよくありません。自分の心をコントロールできない人は、堀を埋めた城のように戦う力がありません。」自分がほめられる、認められるのは嬉しいことです。でもそればかり意識しすぎるのはよくありません、と書いています。それをしすぎると、自分をコントロールできなくなる。自分の心を制御できなくなってしまう。「俺はできる。私はもう認められているのだ。」そこばかり見て、自分が直さないといけない事も直さないで、そこの一点、できる事だけにしがみついて生きていこうとする。こんな幅の狭い、窮屈な人格者になってはいけないです。モーセは、80歳までの40年間、幅が広げられるために、違う土地に行って、違う食べ物を食べて、やったことのない仕事をさせられて、全部が真新しい事を感謝してやりなさい、と神様からチャレンジされたのです。それによって、視野が広められ、心も広げられたのです。一番されたくないことなのです、広げられるのは。しない方が楽なのです。「もう、よけいなことを言わないで!これでいいと言ったら、これでいいのよ!」と言って生きている方がずっと楽です。でも私たちが、本当に変わりたいと思うならば、自分の心をコントロールできる人になっていきましょう。
聖書の中に、「自分の心を制しない人は、城壁のない破れた城のようだ。」城壁がないから、いつでも人が攻めてくる。私たちの心を守ってくださるのは神様です。その神様によって守られているというものがなければ、いろんなものがあなたの心に入ってきます。汚れた考え方、いやらしい考え方、厚かましい考え方、はしたない考え方、また、節操のない考え方、そういったものがあなたの心を全部支配しようとする。それがあなたの生活の中に出ているのです。私たちは本当に変わっていかないといけない。節操のない人を見ていたら嫌でしょう。私たちも、そんな世の中の価値観にさいなまれて、もっと上のもの、もっと良いもの、もっと綺麗なもの、もっと価値のあるもの、もっと、もっとと、飽くことがない。この世の価値観に飽くことのない人間になってしまったら、あなたはもう終わってしまいます。我々は、それを正していかなければなりません。この世は、「良いところを伸ばせ!」言い換えるならば、「悪いところは放っとけ!」、こうであっては、子供は可愛そうです。この世で、どんなレッテルを貼られようと、「そんなんじゃないよ、あなたは。」と、言う前に「あなたは神様に造られた、最も良い者です。」という自信を持たせてあげてください。その人の心に、人格に、栄養を与えてあげてください。世が、あなたを「病気だ。」と言ったとしても、「あなたは神様の目から見たら、十分な人ですよ。」ということを、教えてあげてください。我々は、そのように神様に造られているからです。
テモテへの第二の手紙3章16、17節「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。」すべて神の霊感を受けて書かれているから、教えることができ、戒めることもできる、正しくし、義に導くのに有益である。この義というのは、自己義ではないです。神様の義です。それは無条件の愛です。無条件に人を愛するということです。神はすべての人を無条件に愛しておられるという無条件です。だから違いがあっても裁かないし、違いがあっても認めるということです。これによって私たちは整えられる。神の人とは?神様を信じている人のことです。特別な人のことではないです。神様を信じた人は皆、神の人です。その人が、「十分な準備ができて、完全にととのえられた者になる」とは、この地上での生き方です。この地上の価値基準に左右されない人になっていくために必要なのが、聖書の言葉です。
ガラテヤ人への手紙5章16節∼26節(リビングバイブル)16節「あなたがたに勧めます。聖霊の導きに従いなさい。聖霊は、どこへ行くべきか、何をなすべきか教えてくださいます。そうすれば、自分の肉の欲望のおもむくままに走ることはありません。」この地上にいたら、私たちはいつも肉の欲望にさいなまれてしまいます。誰かが、自分より良い車に乗っていたら、「欲しいなぁ!」と思うし、自分より良い物を着ていたら、「あんな物を着てみたい」。自分より良い物を食べていたら、「あんな物を食べたいなぁ!」。そんなことを私たちは求めるべきではないのです。与えられている範囲で、できることを感謝するべきです。17節「私たちの生まれながらの性質は、聖霊がお命じになることとは正反対の悪を好みます。一方、聖霊の導きに従って歩んでいる時に行いたくなる善は、生まれながらの肉の願望とは正反対のものです。内面のこの二つの力は、どちらも私たちを思いどおりに動かそうと、いつも格闘しています。そして私たちは、この二つの力の板ばさみになって、したいと思うことが自由にできない状態なのです。」皆さんの中にも、正しいことをしたいけれど、「あぁ、恥ずかしいなぁ!」とか、声が出せなかったということが、何度も何度もあったと思います。私もそういう経験をしたことがあります。「これ、自分がしないといけないと思っていたのに、誰かが先にやって、「あぁ、だめだ。次、やっていこう。」自分を責めて、また、できなかった。でも、本当に正しい事をするには、神様の助けが必要なのだということです。そうしたら、できます。いつも私たちは格闘している。そして、いつも不自由さを感じている。それは自由ではないです。ここから私たちは解放されないといけないのです。18節「しかし、本来聖霊に導かれているあなたがたは、もう自分を律法に従わせる必要はありません。」この律法というのは、旧約時代に書かれた律法のことですけれども、これは、衝動というように捉えることもできます。一時的な衝動に従わせる必要はありません。目で見ると、欲が起こってきて、その衝動にかられ、「あぁー、どうしても手に入れたい!」という、その衝動に従わせる必要はなくなっていくのです。5章19節∼23節「生まれながらの悪い性質、つまり肉に従った結果がもたらすものは明らかです。すなわち、汚れた思い、好色、偶像礼拝、心霊術、憎しみ、争い、怒り、利己心、不平、あら捜し、排他主義とそこから出て来るまちがった教え、ねたみ、人殺し、泥酔、遊興、そのような種類のものです。前にも言いましたが、もう一度言いましょう。そのような生活を続ける者は、一人として神の国を相続できません。しかし、聖霊が生活を支配してくださる時、私たちのうちに、次のような実を結びます。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制です。そこには、律法に反するものは何もありません。」すなわち、私たちの中に、本当に人を愛する愛。そして、どんな状況でも喜ぶことのできる力。どんな環境の中でも常に自分の心を落ち着かせる平安。そして、どんな裏切りを経験したとしても、常に人に対して寛容であり、親切にし、悪意を表さないで、常に誠実な姿勢を示す。そして、柔和さ。そして自制。これが本当に大切だと思います。24節∼26節「 キリストに属する者は、生まれながらの自分が持つ肉の欲望を十字架につけてしまったのです。もし私たちが聖霊の力を受けて生きているなら、すべてにわたって、その導きに従おうではありませんか。そうすれば、互いにねたみ合ったり、いがみ合ったりすることはないでしょう。」神様の霊に導かれたら、私たちは妬み合ったり、いがみ合ったりすることはないです。ここに、私たちは到達することを願いましょう。また求めましょう。私たちは本当に弱さを覚える者です。でも弱さを覚えて、神様の助けによって強くされているということを信じましょう。それが、今日皆さんにお伝えしたいことです。ですから神様は、正しいアイデンティティーを私たちに回復してほしいと願っておられる。この社会という集団の中で、私たちが評価されてきた、私たちがこういう者だと自覚させられてきたもの、それは間違いではないです。でも、それによって自分を定義して、自分はそういう者だと(卑屈に)生きていく領域から、神様によって、さらに私たちの自己を確立していくということを求めていきましょう。
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