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執筆者の写真kchristchurch

2022.9.4「地上の作り出す構図からの脱却」久松 義人牧師

 今日から皆さん、合同礼拝です。コロナ以前の、一つになって、もう一度集うことができる神様の恵みを心から感謝いたします。隣に座っておられる仲間と顔を合わせることができることを、皆さん喜んでおられると思います。伝道礼拝の祝福を本当に感謝します。神様が私たちの共同体の中に置いてくださっている賜物を通して、共同体全体が祝福を受けたと信じます。

 地上がいつも作り出してくる構図から、私たちは脱出したいと願います。学校で習うことは、そういうものが多いです。構図、式とか、そういう形というものをこの地上は作り上げてきます。その中でその本題に入る前に、このピリピ人への手紙2章の背景をまずお伝えします。パウロ先生は、エペソという町の牢獄の中で、この手紙をピリピの教会に兄弟姉妹を励ますために、書いて送っています。そして1章の中では、パウロ先生が福音伝道の旅行、その行程の中で起きた様々な苦しみ、そしてついには投獄されてしまう、そういう苦しみがあるのですけれども、その中で、「あなたがたの間では、競争心から福音を伝えよう」と、目に見える所での勝負をしかける。そういったことが1章で書かれています。しかしながら、「そうであったとしても、福音が伝えられているので、それは喜ばしいことなのです。」と、1章でパウロ先生は語っています。1章の後半では、パウロ先生にとっては、「生きることはキリストである」と語っています。自分の人生が終わることについても言及しています。すなわち投獄されていますので、いつ死が訪れてもいい状態です。けれども、私がもし生きるならば、生きることは私にとってキリストです。すなわちキリストの福音を伝えることです。そうでないとしたら、究極的にもう一つの選択肢は死。死が訪れるならば、「死は私にとって益です」と、おっしゃっています。なぜなら地上にとどまるよりも、天に帰る方がパウロ先生にとっては益です。それは、ご自身が信じた福音の救いが御自身に成就するということになりますから、「死を迎えることは、わたしにとって益です。けれども地上にとどまるならば、キリストを伝え、この福音に生きること、これだけがわたしの喜びです。その喜びを満たしてほしい。」と、パウロ先生は語っています。福音を伝えていく中、その苦しみの中、そういった背景の中で、2章1節から「私たちは神の国の福音を語り、伝え、一人一人の人生の中に救いが成就していくことが、私の喜びです。皆さんもそうでしょ!」と、ピリピの兄弟姉妹を励ましている中で、どのように生きるべきかを2章1節、その背景でパウロ先生は語っています。

 ピリピ人への手紙2章1節~4節「そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。」その福音を私たちは伝え、また福音が、一人一人に成就していくことが私たちの目標です、喜びです、という背景の中でパウロ先生は、私に、皆さんに、このように勧めています。クライストチャーチの皆さんに、もし愛の交わりがあるなら、聖霊の交わりがあるなら。1節、「熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、」まずその前提で、兄弟姉妹、私たちはそのことを「ハイ!」と言うことができますでしょうか?ここが、私たちの信仰が起動する所です。時々、普遍的な教会を通して、私たちに励ましを送ってくださる方法を神様はとられます。8月の聖会で、私たちはそれを体験しました。高橋先生が私たちに語ってくださいました。高橋先生はこの教会を見て、私たちと交わって、一人一人と関わった訳でもないけれども、私たちの月報を読み、そしてあの短い時間、私たちと共に過ごす中で、「クライストチャーチには愛があります。」と、私たちを励ましてくださいました。兄弟姉妹、それをイエスの恵みによって、私たちは、「そうです!」と言うことができますでしょうか?信仰を今、起動することができますでしょうか?私は、「アーメン!」と言います。その通りです。先生は私たちを励ましてくださいました。私たちは信仰によって、個人個人の内に互いへの励ましがあります。それを告白します。そしてそれを、その通りに具現化し、目に見える形で互いに実践していきます。今日、それを行える相手が皆さんの横に座っておられます。それを私たちは実現します。愛はあります。交わりがあります。そうであるならば、2節にパウロ先生は、「同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。」それは、先ほど1章の背景で申し上げました。福音が語られ、「生きることはキリストです」キリストを伝えることが私の思いです。同じ思いを、クライストチャーチよ!ピリピの教会よ!持ってほしいと、パウロ先生は勧めています。福音が成就することが、パウロ先生の喜びです。それを満たしてほしいと、パウロ先生は私たちに勧めています。もし愛があるならば、もし御霊の交わりがあるなら、私たちに情熱とあわれみがあるならば。そうでなかったら、パウロ先生はいつでも天に飛び立ちたいです。しかし、とどまることを神様のみ旨によって、彼は悟り、駆り立てられて、御言葉の励ましを送り、福音が達成することを彼のモチベーションとして、ここに書いています。「それはわたしの喜びです。」

今日の鍵となる3節、「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。」今の背景のすべての中で、福音を伝えます。生きることは、キリストのために生きます。そしてその福音を前進させていく中で、愛が、交わりが、互いの励ましが共同体の中にあります。その背景の中で、パウロ先生は、いえ、神様は、皆さんに勧めています。「へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。」これが神様の勧めです。この「しなさい」というのは、日本語ではbe動詞のような表現がされていますけれども、実際はきちっとした動詞が使われています。その動詞は、英語では“エスティーム(esteem)”という言葉が使われています。それは、「高く評価する」「尊重する」「尊敬する」「重んじる」「敬意を払う」。この、「しなさい」という言葉は、そういう意味です。自分以外の人を高く評価し、尊重し、尊敬し、重んじて、敬意を払いなさい。それが、この「しなさい」という言葉です。どのようにしてですか?自分より優れた者として、そのようにしなさい。その「優れた者」というのは、「自分より高い者」という言葉が使われています。自分より、文字通り優れている者、また、自分より実際に上の者、自分より上の位置にいる者として、先ほどのように、評価し、尊重し、尊敬し、重んじ、敬意を払いなさい。このようにパウロ先生は勧めています。これを、先ほど私たちが聞いた福音を伝達し、共同体の中で行いましょう。人間的な思いの中には、なかなか逆立ちしても難しいような思いが、すぐにやってきます。なぜなら、私たちが今まで生きてきた地上の価値観に基づいた人間の思考のパターンでは、こう想像することができます。実際に、事実、私よりも優れている、高い位置にいる人をそのように尊重するのはたやすいです。そうではないですか?事実私は、この人を私より優れている、私より上だと、心の思いと経験と知識と肉の判断で、そう判断できるならば、それはたやすいです。それが、私たちが地上で生きてきた思考のパターンです。そうであるならば、このように尊重する、そのようにみなすことは、私にはできます。おそらく皆さん、そう感じられると思います。けれどもパウロ先生は、この後、その私たちの、あまりにも普通となっている基準をぶち壊すためのキリストのパターンを、後で語られます。皆さん、どうでしょうか?事実、自分より優れた者を優れた者とするのはたやすいです。あなたより能力の高い人。私より成績のいい人。私より運動能力の高い人。私よりユーモアのセンスのある人。私より良い車に乗っている人。私より良い家に住んでいる人。おそらく良い家を見た時に、地上の思考のパターンだと、自動的に、「あっ、お金持ちなのだな!」私よりも、面白い人。私よりも器量の良い人。私より影響力がある人。私よりも口が達者な人。私より人気がある人。私より人望がある人。校長先生。何々先生。私よりも音楽の才能が秀でている人。私よりも家柄、身分が優れている人。私より良い学校に行っている人。私より良い学歴のある人。私よりトリビア(雑学)をよく知っている人。私よりフォロワー数が多い人。私より視聴回数が多い人。私より「いいね!」の数が多い人。私より料理が上手にできる人。私よりスタイルが良い人。私より人格が優れている人。私より経済力のある人。私より良い所に勤めている人。地上の価値観が邪魔をして、これをさせなくしてしまいます。でも皆さんは、そうでないと私は信じます。それを今日、強めたい。皆さんはそうでないと、皆さんはその思考から脱却していると信じて、今日もう一度、この地上の思考の構図からの脱却を語ります。それを破壊するかのようなデモンストレーションを、イエス様は私たちに示されました。よくご存知の御言葉です。ピリピ人への手紙2章6節~9節「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。」すなわち、イエスを死から甦らせ、天上の座に着かせられました。6節~8節のゆえに、神様は、キリストをそのような御座に着かせられました。先ほどの私たちの思考のパターンとは真逆のことを、イエス様はここでなさってくださいました。人間基準から、はなはだ真逆のパターンを実演されました。

先週礼拝の中で、「ABOVE ALL」という賛美を私たちは捧げました。「十字架にかかられて」という歌。神様が一人の人に賜物を与えて、聖霊によって、神様の心の心臓部分から流れてくるメッセージがその歌の中にあるので、聖霊様が私たちの心を掻き立て、私たちの霊を喜ばせ、心を震わせる。それが神様の作用の仕方です。その歌にこう書いています。「すべてのものにまさって、すべてのものの上におられて」そういう風に歌っています。そして最後に、ちょっと詩的な、ポエムのような表現で、英語の歌で書かれています。「地に踏みにじられたバラの花のように、あなたは死ぬことを選ばれました。そしてあなたはすべてのものの上にまさって、私のことを思われた。」と、この歌にあります。「すべてのものの上にまさって、何にもまさって、私のことを思われた。」そういう風に、この歌は歌っています。それが私たちの霊と魂を、神のそのメッセージが真実であるゆえに、私たちの心を揺り動かします。力と権威と諸々の王国よりも上におられた方です。今日も科学の領域で、人間が新しく発見するものがあるでしょう。けれどもそれよりも初めから、つまるところ、神様はそれよりも上におられる方です。その神が、今読んだ、ご自身の価値と私の命を見た時に、私の命の方を他の何ものにもまさって尊いと思い、自分の命を投げ出してくれた。すなわち何にもまさって存在しておられる方の命よりも、私の、あなたの命を尊いと思って死ぬことを選ばれた。これが、イエス様の「己を低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、従順であられた。」すなわち「互いに自分よりも相手の方を優れた者としなさい。」という究極的に、私たちの思考のパターンから外れた方法を、イエス様は実践してくださいました。私のような、また皆さんのような、神に敵対していた全人類、値することのない神の救いに、その方がすべてのものの上におられるのに、私の命の方を「あなたの方が優れています。」として、自分が下ることを選んでくださいました。自分は地の底の、ハデスに下ってくださいました。おむつを替えてもらう人生を二千年前に始められて、その実演を、イエス様は私たちにしてくださいました。ですから、まず、へりくだった心をもって、そのへりくだった心とは、イエス様の心です。ご自分を低くして、己を低くして、というパターンを6節~8節で語る前に、パウロ先生は3節で「へりくだった心をもって互いに人を自分よりすぐれた者としなさい。」そう勧めています。それが、私たちが今日、行いたいことです。それをなすためには、どうしたらよいでしょうか。

3節ありきで、2章4節「おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。」これにはたくさんの訳があります。「あなた自身の益のことだけではなく、他者の益のことも気を払いなさい。」私自身の益、もちろんそれは、私の人生のために、子供たちのために会社に行って勤めます。それはまず、当然のこととして努めなさい。それを全うした後に、他者の益のことも考えなさい。別の訳では、「あなた自身の事柄のことだけではなく、他の人の事柄のことについても考えなさい。」また、「あなた自身の関心事だけではなく、他の人の関心事についても考えなさい。」そう、この4節は語っています。私たちはそれを、行いたいです。この愛のある共同体の中で、それを私たちは行うために、ピリピ人への手紙3章6節~10節を読んでみましょう。最後の成熟の追跡を私たちは学びました。教会が終着点に到達するための成熟の要素を、ここで学びました。6節から読みましょう。「熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、」たくさんの原則を、真理を、私たちが通るべき霊的行程を、ここで私たちは過去に学びましたけれども、7節に、「わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。」この行程をパウロ先生は通られました。その、彼にとって益であったというものは、先ほど皆さんに一つ一つ、くどいくらい言いました。「私より何々が」と。そういった、それらの要素、すべてこれらのものをキリストのゆえに、損と思うようになりました。それらのことについては、6節より前にパウロ先生は述べています。彼はエリート中のエリートでした。家柄も、名門中の名門でした。それらは彼にとって損となりました。それは、自分の益ではなく、私にとって益ではなく、他者の益を思うというこの奥儀、秘密が隠されています。それは、「主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、一切のものを損と思っている。」キリスト様を知れば知るほど、イエス様を知れば知るほど、先ほど私が述べた、すべてのリストに出てくるものは、ごみのように感じられる。それがパウロ先生のプロセスです。イエスがどんな方であるか、知れば知るほど、御言葉を読めば読むほど、さっきのリストに載っているもの、それらはまるでごみのように思えるようになった。それらはすべて、兄弟姉妹、はっきり言います。先ほど述べたリストに載っているものは、対比です。人と比べる。それらをすべてごみとするには、キリスト様を知る外にないです。その構図から脱却するためには、キリスト様を知る以外にないです。キリストを知れば知るほど、それらはごみになっていきます。どのようにしてですか?「すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、」それがピリピ人への手紙2章6節~8節です。イエスが通られた、それがこの様です。それと等しくなるならば、先ほどの、人と比べて相手がどうだから、または、相手が自分より下だから、そういったものに一切関係なく、地上の構図からすべて脱却して、キリストが私たちには考えられないような愛を実演してくれた。その様と等しくなるならば、それらはごみになります。イエス様は、私みたいな者をご自身の命よりも、何にも代えがたいと思って、無条件の愛、アガペの愛を十字架で示してくださいました。これらのリストの対比、それは地上の構図そのものです。

「マウントを取る」という言葉を御存知ですか?圧倒的に有利な状態です。シュヴァイツァー伝記を読んだ時に、シュヴァイツァー少年は幼少の頃お金持ちで、彼は豊かな家に住んでいました。ある時、友達と取っ組み合いの喧嘩になりました。その取っ組み合いの喧嘩をした相手は、シュヴァイツァー少年よりも背が高く、体も大きかったのですが、取っ組み合いをしている間に、シュヴァイツァー少年の方が相手を下に組み伏せて、シュヴァイツァー少年が上になって相手をやっつけ、その時に、その自分より背の高い近所の友達だった男の子が、「お前のように大きな家で金持ちの家に住んでいたら、俺だって肉の入ったスープを食べられて、お前にこんなにして喧嘩に負けはしなかったけれどなぁ!」と、絵本に書いてあったことを覚えています。それはまさしくマウントです。経済力が、家柄が、その人の職業が、その負けた男の子に人生の敗北感を与え、自分が無価値のような捨てぜりふを吐いて、それがこの地上の構図です。「マウントを取る」。差別する側と、差別される側があります。雇う側と、雇われる側があります。教える側と、教えられる側があります。見くびる側と、見くびられる側があります。うわさする側と、うわさされる側があります。皆さん、多分後者にはなりたくないと、常々思っているのではないですか?それを今日、消したい。ピリピ人への手紙2章6節~8節において、それを捨てるための唯一の方法は、キリスト様を知ることです。「主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、」その行程を通ったら、今、言ったようなことで私たちの価値を判断するものが消えていきます。その構図に私たちは影響を受けないようになります。モーセはキリストを知る前に、このことを別の角度から学びました。モーセは、キリスト以前に、この真実について地上の構造に影響を受けないことを、神から直接教えられました。出エジプト記4章10節~11節は、モーセがエジプトに出ていって、みすぼらしい羊飼いの杖を持って、かつては王朝のプリンスであって、かつては王朝の継承者であったのを捨てて、エジプトの王国で、かつての宮殿の仲間に会わなければならない前のことです。モーセの構造は、地上のパターンで満ちていました。王朝と羊飼い。エジプト人とイスラエル人。この構図。常に上か下か。それに満ちているモーセを、神様が召された時、モーセは語りました。出エジプト記4章10節~11節〔モーセは主に言った、「ああ主よ、わたしは以前にも、またあなたが、しもべに語られてから後も、言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです。」主は彼に言われた、「だれが人に口を授けたのか。話せず、聞えず、また、見え、見えなくする者はだれか。主なるわたしではないか。」〕ここに神様の秘密が詰まっています。モーセはそのような大それたことを、「私はできる者ではありません。私はしゃべることができません。しゃべろうとしたら緊張してどもります。」それがモーセでした。だから、アロンが彼のために代弁者として伴い、最強のエジプト帝国に出ていったのです。モーセはそういう思考で満ちていました。神様は、「だれが人に口を授けたのか。話せず、聞えず、また、見え、見えなくする者はだれか。主なるわたしではないか。」地上において、私の上司が、「久松君、こうしなさい。」彼は私に指示する人です。私に指示する人を置くのも置かないのも、それは、「主なるわたしではないか。」皆さんが見くびられても、それはすべて神様の主権の中です。それによってあなたの価値が変わることはありません。モーセは悟ることができなかったけれども、ここで彼は悟ります。変化します。そして彼が天に召される直前、エネルギーに満ちて、ヨシュアを呼んで、「恐れてはならない。主があなたと共におられます。この地をあなたは取りなさい。この地を取らすも取らさないも、神次第であるが、神は取らせると言われているので、それを認めなさい。」皆さんの人生がどういう状態であっても、地上の基準において、あなたが教授でも、あなたが教わる側でも関係なく、それらは、主なる神が定めた事であるならば、それによって、あなたの価値を決めることを今日捨ててください。ごみとしましょう。

 マタイによる福音書11章28節~30節「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」ここは、私たちが父なる神様のもとに戻ってくるための、救いのメッセージでもあります。その側面ではなくて、今日は、すべて重荷を負っておられる私、皆さん、先ほど私が述べたすべての地上の構図、上か、下か。優れているか、劣っているか。その重荷を負うている人は、イエス様の所に来て、それを捨てて、柔和で心のへりくだった方、ピリピ人への手紙2章6節~8節を実演されたイエス様の基準をあなたも持ってください。すなわち先ほど述べた、優劣に関わらず、互いに、自分より優れた者とする生き様をイエス様に学んでください。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるでしょう。劣等感で、地上の構図で、魂に休みがないのならば、それはおそらく地上のくびきを負っているからです。今日、その地上の重荷、くびきを捨てて、神の形であられたが死に至るまで従順に私のために、私を何よりも上に思ってくださった方、その方の生き様に学びましょう。イエス様の基準は負いやすく、その荷は軽いからです。地上の、先ほどの基準で生きる方がよっぽど困難ではないですか?だから、それをごみのように捨てて、イエス様のくびきを、キリストの基準をもって、隣の人に「あなたは私より優れています。」と、心から言ってみてください。地上の構図が何もない。心からそれが言えますか?言いましょう!あなたは私より優れているから、敬意をもって話します。あなたは私より優れているから、私はあなたを認めます。重んじます。そういう風な言葉で話しましょう。それはどういった背景でしょうか?福音を成就していく背景の中で、私たちはそのように生きていきます。このピリピ人への手紙2章の後半では、「おのおの自分の救の達成に努めなさい。」と、パウロ先生は勧めています。皆さんの救いが、あなたの人生の最後の心臓の鼓動が終わる瞬間に、救いが、あなたの身に成就することが、パウロ先生の喜びでした。皆さん、それを今日、ご自身の信仰を確固たるものとしてください。そしてその救いの中に加えられてくる方々が、私たちの喜びでありますように。その背景の中で、あなたの隣に座っている人は、あなたより優れている。その敬意をもって、互いに語り合いましょう。兄弟姉妹、イエス様の愛で、イエス様のくびきを負ってください。ごみを捨てるために、イエス様のことを知りましょう。テレビのメディアよりも、イエス様のことを知ってください。

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